金曜日, 11月 18

非対称戦争以後のロボットアニメについて考えてみる

リアルロボットアニメの“リアル”が指すものについては色々あるが、ここでは“現実世界との関連性”という意味で捉える。
さて、911の直後に富野戦争と平和の中で語ったように、いわゆる非対称戦争において、拠点や前線という概念は存在しない。
戦争と平和

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その結果、戦車や戦闘機といった兵器は、従来に比べて役割を縮小することになり、そのメタファーである巨大人型ロボット兵器が戦場で活躍する姿も、必然的にリアリティを失うことになった。
そんな時代にあって“リアルな”ロボットアニメとは何ぞや?という命題に対し、的確な答えを返した作品は、ほとんど無かったんじゃないだろうか。
敢えて言えばコードギアスあたりが最も近いのだろうけど、あれはロボットを添え物扱いしていた感が否めない…まぁそれを言い出せば、昔からリアルロボットアニメは「番組内にロボット(=オモチャのCM)さえ登場させれば、あとは何を描いてもいい」という条件を逆手にとって、好き放題なテ-マを扱ってきたわけだが(笑)。
フルメタル・パニックは原作の時点で、国家間戦争よりテロ(組織)に重点を置いていたものの、あいにく原作をほとんど読んでないし、アニメ化された部分だけでは非対称戦争の要素をそれほど含んでいるようには思えない。
無い物ねだりをするなら、伊藤計劃が存命であれば、いずれガンダムなり他のアニメなりの脚本を手がけて(←あるいは、虐殺器官ハーモニー自体が映像化される可能性すらあったかも)、その名をさらに広く知らしめたのではないか…と、それも今となっては叶わぬ夢となった。
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ハーモニー

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そしてビンラディンが死に、アラブの春を迎えたことで、非対称戦争の時代そのものが終わりを告げた可能性もある…この点に関しては、もう少し時間が経たないと正確な判断は難しいが。
では仮に、時代が移り変わりつつあるとして、その新時代において“リアル”なロボットアニメとは、如何なるものだろうか?
安直なバタ-ンとしては、強まる中国の軍事拡張路線をイメージして、「新興の覇権国家と、それに対抗する自由主義陣営」という、古びた“大きな物語”の復活を模索する選択肢が考えられる。
そのメリットは、数多くの先行作品をモデルとすることで、リスクを低減できる点にある。また、この手の“戦記モノ”は(三国志モノや戦国モノの需要が尽きないように)、時代に拘わらない普遍性を備えたエンタメとして、うまくいけば(ファーストガンダムのように)無限に近い寿命を得られる可能性を有する。
まぁ逆に、王道転じて陳腐と見なされる危険も高いわけで、その点がデメリットではあるのだが。

あるいは「おもに新興国の発展に伴う人口増加と、その影響による食糧と資源の枯渇、そして環境の破壊によって、世界規模で対立と混乱が強まる」といったような未来予想図も描けるだろう…ガンダムで言えば、(ユニコーンオリジンで少し語られた)宇宙世紀前夜のような状況だな。
ともあれ“非対称”戦争は、富める国家(近代的秩序)と貧しい国家(前近代的)との“アンバランス”が背景にあった。しかし、上記のように巨大国家(国際秩序)が弱体化して無秩序・群雄割拠のような情勢となれば、地域紛争や暴動鎮圧が多発するかも知れない。
そういったシチュエーションでは、巨大(←と言っても比較的小型のイメージだが)ロボットに活躍する余地があるから、そこに新たな“リアリティ”を見出せる可能性もあるか。

では逆に、今なお非対称戦争が継続中であるとすれば、どうだろうか? 上述したように、非対称戦争の時代を的確に反映したロボットアニメは未だ作られておらず、できることなら新たな時代に突入してしまう前に、この時代を総括し、代名詞たり得るような作品が生まれて欲しい…というのが、個人的な願望なんだけどね。
で、その手がかりになるんじゃないかと勝手に思い込んでいるのが、なんとダンボール戦機だったりする。

一方、かつて「人型ロボット兵器は使い勝手が悪い」という観点から“リアルさ”にアプローチして、その使いづらい兵器が何とか活躍できるシチュエーションをお膳立てするために、世界観とストーリーを用意する…という、なんとも回りくどい方法論で作られたのが、ある意味で極限のロボットアニメと言えるガサラキ
そこで提示された結論は“極めて限定的なインドア・オペレーションであれば、なんとか使える”というものだったけど、その制作当時と今とでは、状況が大きく変わった。

非対称戦争という状況では、巨大ロボットが活躍しづらいという点はすでに述べたとおりだが、それに加えてエコロジーの観点からも、エネルギーを食いそうな巨大ロボットは相応しくないし、また携帯電話が当たり前のデバイスとして普及して、コンピューターがスマートフォンのサイズまで縮小された時代にあっては、LBXのような小型ロボットが活躍する事こそ“リアル”なのではないだろうか。
高コストの割に使い道の少ない巨大ロボット兵器ではなく、さまざまな状況に利用可能な小型ロボット兵器のほうが優れているのは明らかであり、しかもそれを“リアル”と感じられるだけの技術的・文化的バックグラウンドが、現実世界において整いつつあるわけだ。

もともとダンボール戦機は、恐らくプラレス3四郎プラモ狂四郎の延長上に位置する、純然たる児童向け企画だったと推測される。
まぁ作中では、首相の暗殺計画だのセキュリティ破って建物に不法侵入するだのといった物騒な使われ方も描かれたものの、それらも含めて飽くまで“児童向け作品”という文法に則って演出されている。
だが、こうした小型ロボットの活用法は、「お行儀の良い」児童向け作品の枠内だけに納めるには惜しい。もっと容赦なく、残酷な現実を描くことのできるリアルロボットアニメの世界でこそ、本領が発揮されるのではないだろうか。
「戦略は政治に、政治は経済に従属する」とは銀河英雄伝説のセリフ(←さらなる元ネタがあるのかは知らない)だが、今は“血を流さない戦争の時代”とも言われる。非対称戦争で“最前線”の概念が失われたように、今どきの経済戦争においても、やはり前線は明示されることなく、通貨・条約・情報といった“兵器”だけが激しく飛び交っているわけだが(←こういうネタは、新城カズマが得意そうだな)、とりわけ情報レベルに関しては、小型ロボットの活躍できる余地がありそうだ。
サイズの小ささを生かして政府や軍、あるいは企業の施設内に潜入し、情報を盗み出すというのは、ダンボール戦機でも描かれた用法だし、そのアレンジとしてデータの改竄や破壊、ウイルスの注入、システム乗っ取りによる現実世界への破壊活動…なども、情報・社会インフラに対する攻撃として有効だろう。
もちろん、システムのコンピュータにアクセスするのは、電子戦専用機の役割。グフカスタムのヒートロッドやハンブラビのウミヘビよろしく、機体からUSBケーブルを伸ばして接続する描写は必須ということで(笑)。
そういったハッキングを終えるまでの間、阻止すべく襲ってくる敵機を、護衛機が死守しなければならないというミッションは、アニメであれゲームであれ(←どっちが原作になるかは分からないが)お約束だが、燃えるものがある。
社会インフラのうち、最大の被害をもたらす攻撃対象といえば、やはり原発だろうか…今のご時世では、テレビアニメとして放送するのは困難だろうけど。まぁ“N”は無理でも、BC兵器としての利用なら描写できる可能性はあるか。食品工場や水道局に潜り込み、病原菌や有害化学物質などを混入して大量殺人とパニックを引き起こすわけだ。
あるいは原子力ではない普通の発電所を襲って、大停電を引き起こすというのも、社会に打撃を与える描写としてはアリだろう…画面を真っ暗にすることで、作画スタッフへの負担も軽減できるし(笑)。

以上は戦略レベルでの運用だが、戦術レベルの描写についても、リアルロボット的なアプローチは色々と考えられる。
一番のキーポイントは、動力源だろうか? 侵攻側は(輸送用の車両や航空機の支援を得て、可能な限り目的地に近づくのは大前提として)、目的地に到達するまでは外付けのバッテリーを利用し、いざ作戦行動を開始する際には(戦闘機が増槽をパージするような感じで)それを切り離して軽量化を図る…という描写は、外せないところ。
作戦行動中は内部電池に頼ることになるだろうけど、上記のような重要施設を防御する側なら、施設そのものから有線で電力を確保し(←エヴァのアンビリカルケーブルだな)、長時間稼働できることで、侵攻する側よりもアドバンテージを得ようとするはず。
逆に侵攻側は、そういった電源を奪い取ることで不利を回避しようとするだろうが、それを阻止するために、敵が利用できないよう独自の規格(←業務用コンセントのような形)を採用しているとか。
奪取が無理なら、次善の策としては、電源コードを切断して敵機を機能停止に追い込むべきかね。アニメのロボットが、銃火器と同等以上に刃物(←とくに刀剣の類)をメインウエポンとして運用している点には違和感があったけど、コード切断用ということで説得力を与えられるかも…でもまぁ絵的には盛り上がりに欠けるか。そういう使用目的なら、剣よりもぺンチみたいな形状のほうが説得力ありそうだけど、「なんだかガオガイガーみたいだ」とか言われそうだし(苦笑)。

ロボットを外部から操縦するタイプの作品は、パイロット搭乗型に比べて、操縦者とロボットの一体感を演出しづらいという欠点がある。
また搭乗型は“敗北=搭乗者の死”というリスクに直結しているからこそ、ドラマとして盛り上げやすいという面もあるわけで、そこに断絶の存在する外部操縦型は、もともと人の生死をダイレクトに描くには不向きと捉えることもできる…実際、先行する作品の多くは競技や、せいぜい警察犯罪レベル(←鉄人28号とかね)の枠内に収まっているし。
じゃあ小型ロボットと戦争モノは相容れないのかと問われれば、そんな事は無いだろう。機関銃の導入、ゲリラ戦が主体のベトナム戦争、“ニンテンドー・ウォー”と呼ばれた湾岸戦争、そして非対称戦争…と、戦争の概念がパラダイムシフトする度に、戦場から人間性やヒロイズムが喪失したと嘆かれ続けてきたわけだし、伊藤計劃虐殺器官で描いたように、徹底して人間性や物語性の欠落した状況こそが“今どきの戦争”としてリアルなのだという見せ方もあるはずだ…ただし、それが映像作品として商業的に成功するかどうかは別問題なんだよな。
結局のところ、時代性を嗅ぎ取り、作品として昇華できるだけの実力を備えたクリエイターがいるかどうか?という、当たり前の話に行き着いてしまうか。

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